どこかのパンデミック

※この物語はフィクションであり、実在する状況や組織とは一切関係がありません。
※小学六年生の耳納山雄大(通称:総理)と納戸水清涼(通称:秘書)を中心としたジュブナイル小説です。

 

「総理、今夜も会食ですか?」

 そう尋ねられると、何やら探し物をしていた総理は手を止めて言いました。
「そんなことはきみの手帳に書いてあるだろう。それよりも私のマックスを知らんか?たまに使おうと思うと、どこかへ行ってしまう。外に出る時にはあれがないと世論が五月蠅くてかなわん」
「マックスならダンボールに三箱分置いてあるではないですか」そう言って秘書はダンボール箱から取り出したマックスを手渡しました。
「このマックスは品質が悪くていかん。世論からもこの20倍以上の量が返品されてきているそうじゃないか。だが、世論を納得させるためにはいたしかたない」と総理はぶつぶつと呟きながらマックスを受け取って封を切ったのでした。


 ◇◇◇◇


 身支度を終えると、総理は秘書に向かって言いました。
「留守中のことはすべてきみに任せる。だが、報告は駄目だ。私には何も報告してはならない。すべてきみの判断だ。きみがうっかり私に報告をしたらどうなると思う?とんでもないなことが起こるぞ。世論も黙ってはいまい」
 承知しておりますという秘書に向かって頷くと、総理は部屋を出ていきました。後に残った秘書は、スーツのポケットからスマートフォンを取り出すと集合の合図を一斉送信しました。


 ◇◇◇◇


 運転手は、総理がシートベルトを着けるのを確認するとギアを切り替えてブレーキペダルから右足を離しました。その足をアクセルペダルに移動させると、ゆっくりと踏み込みます。
「今夜の行き先は3箇所と伺っていますが」
 間違いない、と総理が答えます。そして続けました。
「しかし、会食の回数を減らすことも考えてはいる。医学者たちが口を揃えて会食は感染リスクが高いと言っているのだ」
 それを聞いて運転手は首を傾げました。
「はて、総理は医者の言うことに従うのですか?」
 スマートフォンで世論の様子を観察していた総理は、ハッと顔を上げました。
「確かに、私としたことが医学者の言うことに耳を傾けるというのは、どうしたことだろう。あるいは、この状況に疲れてしまっているのかもしれん。私には専門家がついている。私を支持するあらゆる専門家が揃っているのだ。専門家が良いと言えば良いのだ。医学を鵜呑みにすることは科学的であるとは言い難い」
 運転手はそれには答えず、右のウインカーを上げました。対向車線を確認して右にハンドルを切ります。車は、このところすっかり交通量の少なくなった大通りに入ると、スピードを上げて遠ざかっていきました。


 ◇◇◇◇


 男が目を開けると、白い天井が目に入りました。自宅ではありません。周りには白衣を着た数名が動き回っています。聞こえますか?と尋ねられ、頷きました。
 次第に周りの様子が分かってきて、ここが病院の一室であることが認識でました。医師がいくつかの質問をし、男はいくつかの回答をしました。
 やがて男の妻が病室に入ってきて、ベッドの真横まで歩み寄ると、男の顔をじっと見つめたのでした。


 ◇◇◇◇


 秘書は三名の関係者を会議室に招き入れると、しっかりと扉を閉めました。
「総理は動物園の危機に大変心を痛めておられる。そこで、動物園を救済するための特別予算を計上することとする。これは総理の意向だ」
 関係者の一人が「総理がそう仰ったのですか?」と問うと、秘書は「総理はそうは仰っていない」と答え、「だが、これは総理の意向だ」と続けました。
「総理の意向であれば、いた仕方ない」と他の二人が口を揃えても、問いを投げた一人は腑に落ちない様子で「しかし、総理はそう仰っていない」と口にしました。
「真っ当な思考の政治家であれば」秘書は関係者の一人に歩み寄ると「動物園の危機に対して支援をすることは、至極当然な政治判断だと認識できるはずだが」と言いました。
「しかし、あなたは、それが総理の意向だと言い、そして、総理はそう仰っていないと言う」
「きみはどうやら判断能力が鈍っているようだ。流行病に冒されているのではないかね。感染を防ぐために隔離をせねばならなん。きみに自宅謹慎を命じる」
 関係者二人は、その「感染者」から社会的距離を確保すべく二歩ずつ移動しました。


 ◇◇◇◇


 記者は困っていました。
 このところの総理の動向を好意的に伝えるか、あるいは批判的に伝えるか。個人的な感情と、自分の立場との間に深い溝が横たわっているようです。
 「総理の支持率が下がっている。きみはこれをどう解釈する?」
 記者が同僚に尋ねると、同僚は「そんなことか」といった口振りで答えました。
「世論とやらが『マトモ』になっているのさ。感染者が増えれば、それだけ世論が『マトモ』になっていく。感染者数が増えれば、重体患者も増える。反対に、病床数は減って、総理支持率も減る。グラフを見れば明らかじゃないか」
「しかし、その事実を記事に書けるだろうか?」
「書けない。なぜなら、きみは感染していないからだ」
 同僚の答えに、記者は溜息をつきました。


 ◇◇◇◇


 男は自分が感染症による意識障害で数日の間眠っていたことを知りました。
 感染経路は明らかになっていて、二週間前に立ち寄った句会で数名の感染者が出たとのことです。それは、人々が外出を自粛するようになり季語を失った状況で、屋内に飾られた春の季語の造花を観ながら俳句を詠むという会でした。
 幸いなことに、男の妻と二人の子どもたちには感染は確認されませんでした。以前から社会的距離を保っていた家庭内に於いては当然のことのように思われました。
 男の妻は、彼が目を覚ました時にたまたま病院で手続きをしている最中で、それ以来見舞いには来ていません。それについて、男が違和感を覚えることもありませんでした。


 ◇◇◇◇


「また支持率が下がっているな」
「世論が動物園入園クーポンの配布に反発しております。数カ所の動物園でクラスタが発生したという報道が過熱していまして」
「ズーポンの配布はきみの発案だったな」
「左様です。動物園関係者には我が政党の支持者も多いですし、引退した議員の雇用の受け皿ともなっています」
「そのような『建て前』は、わたしは報告を受けていない」
「はい。総理は何も報告を受けていません。総理が知っているのは『本音』だけです」
「世論のためを思い、動物園の支援を決定した。しかし、支持率は下がっている。これはあくまで『仮定』の話だが、ズーポンの配布を中止することが世論の安全を守ることに繋がるという可能性はないとは言い難いかもしれない」
「確かに、そのような可能性はないとは言い難いかもしれません」
「しかしだね、私の発言をきみがどう解釈するかは図りかねるが、先に謝っておこう。もしも、私の発言がきみの誤解を招くことになったとしたら、申し訳ない」


 ◇◇◇◇


 同僚は、ノートパソコンを記者の机の上に置いて話しかけました。
「おもしろいものを見つけた」
 記者がスクリーンを覗き込むと、同僚がその一部を指で指し示します。総理支持者だった動物園園長が、総理にかかっていた嫌疑について言及し、総理不支持の声明を発表したとあります。
「この園長って、確か、感染症で入院してたよな?」
「そうそう。そして、退院したと思ったら、この有様だ。どうだ?俺の『マトモ』理論も状況証拠が集まってきたんじゃないか」
 記者は、同僚が本気なのか冗談で言っているのか判断が付きませんでした。
「それは、きみの『トンデモ』理論じゃないのか?」
 同僚はそれには取り合わず、タッチパッドを操作して別の資料を開きました。
「状況証拠ならまだある。この研究所、興味はないか?来週火曜日にアポが取れた。一緒に行ってみるか?」
 記者は、資料の一番下まで目を通すと、もう一度上から順に文字を追いかけ始めました。


 ◇◇◇◇


「それでは」静寂が訪れるのを待って議長は会議の終了を宣言しました。
「これにて会議を終了する。緊急事態につき、議事録は残さないものとする。各自、自分に関係することはメモを取っていることと思う。なお、今日の会議では、感染予防の観点から、飲み物の配布をしていない。その代わりに、油性マーカーを配布する。使い方は各自の判断に任せるものとする」
 若手議員は、議長が席を立つのを目で追いながら、先輩議員に耳打ちしました。
「なぜ、議事録を残さないんです?先日も問題になっていたかと」
「緊急事態なんだ、仕方ないだろ?平時と同じ気持ちで望むべきじゃない。もっと、危機感を持たないと」
「すみません。会議の雰囲気に気持ちが緩んでいたかもしれません」
 若手議員はマーカーを大事そうにスーツの内ポケットに仕舞うと、先輩議員の後に続いて席を立ちました。


 ◇◇◇◇


 助手は、計器に接続されたスクリーンに映し出されたデータを見て、次に博士の顔を見ました。
「結果は良好だ。感染自体を防ぐワクチンではないが、感染しても重症化を防ぐことができる。これで、感染症で苦しむ人がいなくなる」
「感染自体を防ぐこともできたはずですが、敢えて方向転換したのは、果たして正しかったのでしょうか?」
「それについては、研究の副産物から推測するに」と言いかけて博士は口をつぐんで天井を見上げました。
 しばらくそうしていましたが、やがて助手に向き直って言いました。
「それについては別の部署に依頼した研究結果が帰ってきてからだ。来週には記者が押し掛けてくると言うし、ともかく今は時間がない。きみ、このデータを…」
 博士が助手に指示を出そうとした瞬間、勢いよく扉を開けて数名の男女が入ってきました。驚いて椅子から立ち上がった博士を、そのうちの一人が取り押さえました。
「我々は秘密警察です。あなたを逮捕する」
 そう一人が言うと、別の一人が続けます。
「あなたの罪は、感染を防ぐワクチンを『作らなかった』罪だ。これは、国家反逆罪に当たる」
「そんなはずがあるか。このワクチンがあれば重症患者がいなくなる。医療崩壊は起こらない。表彰こそされても、逮捕される道理はない」
 博士は反論しましたが、男女は博士の口を封じて部屋の外へと引きずり出そうとします。その時、博士は、助手の身柄が拘束されていないことに気が付きました。
「まさかきみが…」と呟いたところで、博士は部屋の外へと連れ出されたのでした。


 ◇◇◇◇


 総理は秘書に「感染者数と支持率のグラフを見たい」と伝えました。秘書は一瞬迷ってから、タブレットにグラフを表示して総理に手渡しました。
「これは何のグラフかね?」
「反比例のグラフです」
 総理は頭の中を整理するようにしばし沈黙し、そして言いました。
「これは反比例のグラフだな」
「心中お察しします。しかしながら、今ここに反比例は発生しており、優先的に解決すべき課題です。幸いなことに、この反比例の発生メカニズムは把握できています」
 そして、秘書は、ある研究所の名前を口にしました。


 ◇◇◇◇


 男は、隣の席に荷物を置きました。他人が隣同士に座ることはないので、こうして荷物を置いていても問題はないのです。会計の呼び出しを待つ間、男はスマートフォンのスクリーンに置いた指を上下に動かしながらタイムラインを眺めていました。
 タイムラインでは、とある記者の書いたトンデモ理論に関する記事について、肯定派と否定派が言い争いを繰り広げています。男は、肯定派のオピニオンをいくつかピックアップして、ハートボタンをタップしました。

 顔を上げると、待合室のテレビには総理の姿が写し出されていました。その上をアナウンサーの声が覆っています。
「総理が全力で感染症対策を講じる意欲を示しました。その第一歩として世論全体を直ちにロックダウンする計画を明らかにし、早ければ一時間後にも計画は実行される見込みです」
 これまでの無策から一転して感染症対策を押し進める総理の真意が掴めず、三人のコメンテーターは一様に首を傾げています。
 しかし、今や感染者となった男には、すべてが理解できたのでした。
 スマートフォンに通知が届き、ロック画面には「病院から帰るついでにスーパー…」と表示されましたが、男はそれをタップすることなく電源ボタンを押しました。

 男には、すべてが理解できたのでした。

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