クソみたいな世界に生きるあなたへ、新年の挨拶に代えて

 あけまして、おめでとうございます。

 もちろん、僕らを覆う(あるいは、僕らに巣喰う)暗闇は明けることはないのでしょう。でも、年が明けて、昨日までの一年間を生き残ったあなたに、おめでとうございます。

 学生の頃から、脳内の神経伝達物質のバランスを欠いていて、毎日、毎日、死ぬか生きるかの瀬戸際を生きています。それでも、十数年間、生きるという選択を積み重ねてきました。ある意味では、生きることのプロフェッショナルですね。

 生きるプロになれたのも、そもそも、生誕ガチャで当たりを引いて、良い人たちに囲まれて(あなたは信じないかもしれないけれど、悪い人に会ったことがないのです)、自分の力で思考をアップデートするタイミングがあって、そんな奇跡が十数年間も続いたおかげでした。
 これは、努力だとか頑張りだとか、そういったものとは一切関係がなくて、ただただ、幸運だったとしか言いようがありません。

 奇跡の五月雨の中にあって、それでも、やっぱり苦しい状況というのは存在していて、脳内の化学物質の乱れをやり過ごし、三人の子どもたちを独りで育てつつ、時間と精神力を通貨に換金しながら人生をやりくりしています。
 長い時間と大きな精神力を現金化すると、ひとり親家庭であっても、公的な支援はすべてえ打ち切られます。行政も精神科医も助けてはくれなくて、どこまでいっても自助が求められる。区役所の窓口で追い返されることも、電話相談の窓口で雑に対応されることも、それは、日常のひとコマでしかありません。

 それでも、僕は幸運なことに、使える時間と精神力と、そして体力があります。努力しようと思えば、努力ができる環境もあります。一方で、そのどれか(あるいはすべてが)、足りなくなってしまったあなたのことを考えると、肺の空気が急速に抜けていって、息苦しくなってしまいます。

 生きることが正解だとは思いません。死が残された救済である可能性を信じています。しかし、一度、その救済にすがってしまうと、後戻りはできません。もしも、死が救済ではなかったとしたら、また、生きることを選択し続けることで正解の破片を見つけられる可能性があるとしたら。
 人生は選択の積み重ねですが、「それ以降の選択が不可能になる選択をすること」に対しては、慎重になるべきなのかもしれません。一瞬、躊躇してみませんか。

 だから、僕にあなたの生きている時間をください。

 もう少しだけ、生きているあなたを見守らせてください。

 こんなクソみたいな世界で、僕らは、生きて、生きて、生きて、今日を生き残れたら、自分に「お疲れさま」って声をかけて、次の今日を生き残れたら、また「お疲れさま」って、次の今日も、次の今日も、次の今日も。
 そうやって生きていきましょう。


 2021年元旦、新年の挨拶に代えて

 宮崎ひび

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