橙書店にて(宮崎ひびの場合)

 熊本の実家に帰った。

 帰省というよりも逃亡と言ったほうが正しい。
 多事多端からの逃亡。とにかく忙しい。息をすることを忘れてしまうくらい。(比喩ではなく、気がつくと本当に呼吸を止めていることがある)
 仕事も家事も何もかも放り出し、相棒であるノートパソコンも自宅に置いて高速バスに飛び乗った。もちろん、この状況下、バスが混み合ってたら飛び乗らないでおこうという冷静さは保っていたのだけれど。

 ところが。逃げても仕事は追ってくる。
 バスの中で現実逃避に映画でも観ようとタブレットを持ってきたのが仇となった。残酷なまでに便利な世の中になったものだ。スマホでもタブレットでも仕事ができてしまう。
 もはや、逃げ場はなかった。

 実家に帰るといつも頭痛に襲われる。
 窮屈なバスのシートに丸まっていると血液の巡りは堰き止められる。ニ時間後、実家に到着すると三姉妹を育てるシングルファーザーの責務から解放されるとともに、堰き止められていた血液が一気に巡り始める。
 そうして、頭の中を通る毛細血管が決壊し、頭痛が始まる。

 感染症の流行により移動を自粛していたから、一年以上も間を開けての帰省だった。
 今回は、春休み中の子どもたちを先にあずけておいた。福岡の自宅にはやるべきことが大量にこびりついており、ひとり残って除去作業に従事するつもりでいた。
 ところが、作業は困難を極め、気がつけばバスターミナルに立っている。

 この一年で生活の様子が変わった人、変わらざるを得なかった人は多いと聞く。小中学生のいるわが家にも大きな変化があった。無策による突然の臨時休校、緊急事態中の卒業式や入学式。
 三姉妹を抱えたひとり親は、すっかり体調を崩してしまった。心身の「心」も「身」も壊れた。それは完璧とも言える体調不良だった。

 体が自由に動かないそんな一年で、行ってみたいと強く願うようになった場所がある。
 カフェを併設した小さな書店(元々はカフェが先だったらしいが)で、名を「橙書店」という。取次を通さず、店主がすべての本を選んで置いているとのことだった。

 坂口恭平を知って十年になる。(つまり、東日本大震災から十年が経ったということでもある)
 彼が原稿を書く場所として、橙書店の名前は目にしていたし、所在地を確認したこともあった。しかし、どういう作用が働いているのかはわからないが「タイミング」が合わず、近くを通りかかっても訪問することはなかった。

 その後、橙書店は熊本地震の被害を受けて現在の場所に移転する。
 実は、それから今日までに一度だけお店に足を踏み入れたことがある。だが、それはまだ「タイミング」ではなかった。足を踏み入れただけで、すぐに店を出てしまった。

 きっかけは、ウェブの記事だった。写真家の川内倫子の「弱者の本ばかりが並んでいる」という言葉が印象的な記事だ。
 前回の訪問時には「弱っている人」ではなかった(ひとり親で多子世帯でも、一定の収入があるとひとり親としては扱われず、所得税の寡婦控除・寡夫控除以外の措置は一切ない)。何かを求めているわけでもなかった。多少、いや、かなり疲れてはいたけれど。
 この一年の間に、その記事を見つけて、(まるで行ったことがないかのように)橙書店に行ってみたいという気持ちが強くなった。今が「タイミング」であるような気がした。

 完璧な体調不良により、出来ることが限られている。そうすると、生活をしていくには「考え方」を変えるしかない。考え方を変えることにより、現在進行形で「日々自由になっていっている」という感覚を持つようになった。
 どこに住んでも良いし、誰と暮らしても良い。仕事は何だって構わないし、仕事をせずに生きていく手もある。もっと言えば、生きていなくても良い気もしている。

 けれども、まだ、しがみついている。何にしがみついているのだろうか。
 そんな自分を壊したい。
 ガツンと叩き壊すのか、それとも、静かに融かすのか。方法はわからないが、破壊したい衝動だけがある。
 何か「取扱説明書」のようなものが存在するのではないかと、昼夜問わず本を探し回った。昨年末には一ヶ月で十万円分以上の本を購入していた。
 だが、本を読むようになって日が浅い(二年くらいだろうか)。何を読めば良いのか、誰を読めば良いのか分からない。

 橙書店に行けば、何か見つかるかもしれない。そんな期待があった。
 そして、行くなら今日だ。

 実家から坂道を登り、停留所でバスを待つ。
 もちろん、バスが混んでいたら乗らないという冷静さを携えて。
 ヘッドホンは置いてきた。その場その場の音を聞きたかった。当時と変わらない音を聞きたいのか、あるいは、音の変化を感じたいのか。
 風が強く、大木の下にいると、上からざわざわという音が降ってくる。そういえば、福岡の自宅の近くにこんなに大きな木はあっただろうか。

 幸い、バスには一人も乗客がおらず貸切バスとなっていた。
 川沿いを走るバスが橋を二つ通り過ぎた辺りから、窓の外の景色に意識を向ける。母校は十数年前とそれほど変わらないように見えた。
 かつて、夏目漱石が教鞭を取っていたらしい。理系の学生にとっては、学食で差し出す千円札に比べるとまったく興味のないことであったが。

 街(熊本市内では「街」というのは固有名詞として使われることが多い)を通りすぎ、バスターミナルに到着する。
 人の密集置を避けるためにアーケード(これも固有名詞的だ)には立ち寄らず、橙書店に直行する。
 前回は周辺を何周もしながらたたどり着いたが、今回は、容易に見つけることができた。目を閉じていてもたどり着いていたのではないかとも思われた。それは、引き寄せられていたとも言える。

 狭い階段を上り二階へ。扉を押して中に入る。チリンと音がする。目の前にはすぐに本棚。女性が一人、その向こうの本棚に対して何かしら作用をしている。一目で店主の田尻久子さんだと分かったが、会釈だけして声はかけなかった。
「いらっしゃいませ」だったか、そうではなかったか、ボソリと声が聞こえる。愛想のない接客だということも出来るが、むしろ、自然であるような気がする。この雰囲気の空間に声を張った接客は似つかわしくない。

 バスターミナルから歩いたのは数分であったが、ひどく蒸し暑くて息苦しい。熊本特有の蒸し暑さのように感じる。本を見て回る前にアイスコーヒーを注文した。
 窓に面した席に通される。本棚もテーブルも天井も、すべてが「古さ」を主張しているが、実際にはそれほど古いものではなさそうだ。

 前回(個人的には前回の訪問はカウントせずに、今回を初訪問だということにしたいが)は、店主と常連客らしき人がカウンター越しに談笑していた。
 この場所について調べると、「常連」という単語をよく目にする。
「常連」というのがどういうわけだか苦手で、常連客のいる、といういうよりも「常連感のある」飲食店に立ち寄ることは少ない。マクドナルドでハンバーガーを食べて、スターバックスでコーヒーを飲む。
 そんなわけで、幻の前回の訪問ですぐに店を後にしたのには、常連感に気後れしたというのもあるかもしれない。

 今日の店内は、乗ってきたバスと同じく貸切だった。アイスコーヒーを飲みながら、ところ構わず視線を投げかけていても、誰の視線ともぶつからない。
 飲食スペースに川内倫子の(自分が所有していない)写真集を見つけて、パラパラとめくる。以前、熊本市現代美術館に個展を見に行った。阿蘇を撮った写真が展示されていた。撮影当時、彼女はこの書店(物理的には移転前の)に立ち寄っていたのだろう。

 コーヒーを飲み干す。書棚をゆっくりと見てまわる。
 店内は貸切だし、他にどこかへ行く意思がないので時間はたっぷりある。(ただし、仕事のメッセージ通知が左手首のスマートウォッチを振動させない限り)
 本はそれほど多くない。一冊ずつタイトルを黙読していく。すべて店主が選んだ本。福岡の大型書店に平積みされている話題の本は一冊もない。

 いつもは、アマゾンの検索窓にテキストを入力して本を探している。「その」本を買うか買わないか、二者選択のジャッジだけをすればよい。
 しかし、今日は勝手が違う。普段は視界に入ってこない本が視野の中心を通り過ぎていく。タイトルや帯から内容が推測できるものもあれば、何について書かれているのか全く想像できないものもある。
 店内にはややアップテンポな音楽が流れており、プリンターのヘッドのモーター音や店主が扉を開け閉めする音が混ざり合い、ここが特別で神聖な空間ではないということをアピールしているかのようだ。
 つまり、この空間には自分を壊す(叩き壊すにせよ、溶解するにせよ)ための本との出会いを演出しようという意図は感じられない。
 なんだか、気が楽になった。

 来店客には、店主にお勧めの本を尋ねるというオプションもありそうなのだけど、今日、それは必要ないように思えた。
 本棚巡りの二週目を開始する。今度は足早に棚の間を移動しながら右手で本を抜き取って左腕の上に重ねていく。

 残酷なほど便利な世の中だ。
 ネットを探せば手に入らないものはない。少なくとも、平凡な日常を生きる人間の想像の及ぶ範囲であれば。
 この書店でしか「買えない」本は、(おそらく)存在しない。であれば、この店でしか「買わない」本を買おう。

 まず、『みぎわに立って』と『アルテリ』の九号を手に取った。近所の書店に置いてあるのは確認済みだが、ここで買うことに意味があるように感じる。
 それから、興味はあるけれども味わい方のわからない「詩」について扱った本と、「短歌」について扱った本を選んだ。
 詩集も欲しかったけれど、今は選び方すらわからない。

 左腕に重ねた本をレジカウンターに置く。書籍とアイスコーヒーとを合わせた金額に、追加でホットコーヒーの金額を足してもらう。買ったばかりの本を数ページずつ読んでから帰りたい。
 目の前にいる『みぎわに立って』の著者にサインをもらうこともできただろう。しかし、あえてそれをしなかった。
 もらったサインは物質化する。それは本と共に風化してゆく。一方で、もらわなかったサインは、いつまでも記憶に残り続ける気がした。
 この場所で買った数冊の本は、将来(物理的に)手元から離れたとしても、この蒸し暑さとともに脳のどこかに残り続けるだろう。

 脇のカウンターにシングルマザー支援のパンフレットが置いてあるのが目に留まり、それについては尋ねずにはいられなかった。
 店主も活動に参加しているということだった。福岡でひとり親支援のお手伝いをしていて行き詰まりを感じていたこともあり詳しい話を聞きたかったが、この小一時間で吸収した情報量を考えると、それを聞くには自分のキャパシティが足りない気がした。

 荷物を置きっぱなしだった席に戻り、ホットコーヒーを飲みつつ購入した本を数ページずつ眺める。
 詩と短歌のとっかかりとなるものを得た。このまま進んでいくと、自分を壊すような作品と出会うかもしれないし、出会わないかもしれない。あるいは、自分を壊す必要はないと気がつくのかもしれない。
 今この瞬間に一冊の破壊的な本と出会うよりも、将来何冊かの詩集や歌集と出会う可能性を考えると、よほど価値があるように思えた。

 店を出ると、仕事の関係者数名に(若干)情緒的なビジネスメッセージを送った。
 波風が立たぬようプロジェクトをマネジメントしてきた。それでも生じてしまった波風は自分で抱え込んできた。
 今送ったメッセージには、プロジェクトに参加してくれたことへの感謝と、このように助けて欲しいという要望とを素直に綴った。(若干)情緒的なメッセージとなった。

 想いが募って特別な場所だと思い込んでいた橙書店も、実際には普通の店であって、(おそらく)すべての本にバーコードが印刷してあって、コーヒーにも特別感はなくて。普通だからこそ常連客がいるのだと思うのだけれど。
 それでも、「タイミング」によっては特別な場所で(それは橙書店に限らずどの場所もそうなり得るだろう)、今日はその「タイミング」だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。それは未来が決めることであるので、自分の中に生じた小さな変化を栞がわりに本に挟んで、結果発表が出るのを待とうと思う。

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