ウィズ・メガネ

 コロナ禍と呼ばれる現在の状況だが、歴史の教科書に載せるとしたら1ページもあればこと足りるのではないだろうか。
 こんな大変な状況ではあるけれど、単に当事者の多い出来事でしかないという気もする。

 東日本大震災はどうだっただろう。日々の生活に埋もれた10年前の記憶を掘り起こしてみる。

 震災後、東京から九州に移り住む人が後を絶たなかった。移り住まずとも、九州にメッセージを伝えにくる人も多かった。彼ら/彼女らは、とても大きなショックを受け価値観はすっかりと変わってしまい、その出来事を表現に変えて新天地で発信しようとした。
 しかし、九州の人々の反応はそれほど大きくないように見えた。一部の人がメッセージを受ける取るためにイベントに参加し、帰宅後、日々の生活に戻っていく。その繰り返しの中で、発信されるメッセージはしだいにその数を減らしていった。

 それから10年が経った。
 自宅に帰れない被災者たちのことを今でも気にかけている人はどれくらいいるだろうか?

 当事者とそうではない者のとの間に深い溝があるのは間違いないだろう。
 そして、当事者意識というのは磁力に似ているように思う。(物理的にせよ関係性のようなものにせよ)距離が2倍になると力は4分の1になる。すこし距離が離れるだけで当事者意識は大幅に減少する。

 今回のパンデミックは、たまたま当事者が多かった。それでいて、受けるダメージには人によって大きな差があった。

 僕自身の(ここには書かないがある特殊な事情を除いて)当事者意識は希薄だと思う。
 5年前に起業して以来、ずっとリモートワークをやっている。不要不急の外出が制限されても、生活のスタイルや仕事のスタイルに大きな変化はなかった。飲食店やイベント関係の知り合いもほぼいない。
 毎日ニュースを眺めてはいるが、スマトラ沖の地震に関する記事を読む「普通の」日本人の感覚に近いかもしれない。

 しかし、いつ何の当事者になるのか予測はできない、というのは常に意識はしている。
 すでに3人の子どものシングルファーザーであるわけで、ひとり親家庭と多子家庭の当事者である。そして、多くの人がそのような家庭の問題に興味がないことを知っている。
 第3子の児童扶養手当をめぐる論争を、どれだけの人が気に留めていただろう?

 もっと極端な事態を妄想してみよう。
 新型コロナウイルスが、O型(僕がO型なので)の人にだけ感染する致死率90%のウイルスだったら?
 新型のコンピューターウイルスによって、IT系企業(これも僕が該当者なので)が軒並み倒産していく状況だったら?

 くしゃくしゃに丸めて放った紙屑がゴミ箱に入るか入らないかで、当事者であるか否かが決まる。そんな世界に生きている。
 そして、紙屑がゴミ箱のまわりに転がっていたとしても、別の部屋の住民からすればどうでもよいことなのだ。

 中学生の頃からずっとメガネをかけている。

 ウィズ・メガネ。

 僕はずっとウィズ・メガネの世界を生きている。けれども、それは僕にとっては日々の生活であるし、他人からすれば僕が感じるメガネの煩わしさなどどうでもいいことだ。

 誰もがそれぞれの「ウィズ・○○」を生きているのだろうし、それによってどれだけの苦痛があるかは人それぞれ。そして、多くの場合、当事者以外が○○を気にかけることはない。

 パンデミックで生活様態が大きく変わったとしても、孫の世代から見れば歴史の教科書の1ページにも満たない些細なことなのだろうと思う。
 さて、教科書の紙繊維1本分の存在感すらない僕らは、ページを埋める文字の隙間をどうやって生きていこう?

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